落花


 

 

いつまでたっても戻ってこない連れを

探して、新緑眩しい繁みの中を分け入った。

 

くら燕が軌跡を描いて頭の上を過ぎていく。

空は晴天そのものだが、風は少し強い。

 

半刻ほどで雨になる。

そう読んだ左近は、愛刀を片手に立ち上がった。

 

 

 

 

…あやつは、戻ってこないかもしれぬ。

 

所用で少し離れる、と告げてあの少年は

山向こうへ駆けていったが、

元より何の縁もない道づれだった。

いつまでも待つ義理はない。

 

しかしまた、あの朧の化身が襲ってこないとも限らない。

1人になったところを狙われたから、

自分のもとに戻らなかった…

となれば寝覚めが悪い。

 

せせらぎが聞こえた。

左近が目を凝らすと、細い絹糸のような

水爆と滝壺が見え、そのほとりで

水飛沫を浴びて

きらきらと輝く裸身が見えた。

 

 

 

 

 

(……女。)

 

それは美しく肉感的な女だった。

腰まである長い洗い髪を、脇に流して

ゆっくりと両手で梳いている。

背中は滑らかで、艶のある色香が漂う。

 

少し頭をもたげて周りを見た横顔も、

幼さが残るものの凛として立つ花菖蒲を

思わせた。

女は長い水垢離に疲れたのか、

気だるげな様子で

側の岩場に向かって歩き始めた。

 

女は、

誰かに摘み取られるのを待っている。

 

と感じるのは、男の勝手な解釈だ。

そしてここには、

男と女のふたりだけ。

 

 

 

 

 

ふいに、左近はー…

脳髄からつま先まで、

何者かにつまびらかに支配されるような。

 

甘い感覚に襲われた。

 

…魔物のような白昼夢にかかったのだ。

 

左近はまるで水鳥を捉える狼のように

その女を捕らえた。

人の気配を消したそれは、

獣そのものになっていたかもしれない。

 

振り返り、声もなく驚いた表情の女の目に、

切なそうな左近の表情が映った。

やがてその目は閉じられ、

彼の激情のままにかき抱かれた。

 

 

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空が曇天に包まれ、

この辺りの山地一帯はひどい雨となった。

 

夕刻から夜半になっても止まぬ雷雨。

 

朽ちた社の片隅で、

この世の夢のような情熱が交わされる。

左近は女の唇を貪り、息を整える間も

与えぬ激しさで、愛し合う。

 

彷徨う目線と、

唇合わせの拙さから、

男女の色ごとには、

娘は不慣れなように見えた。

 

もしかしたらこの娘は、あの滝壺のそばで

誰か想い人でも待っていたのかもしれない。

 

しかし、このひと夜限りで、

忘れさせる…。

 

忍びの女さえ耐え難く、

魂を陥落させるほどの

男の執拗な営みは続いた。

 

娘は疲れきり、

己が身を支える手脚さえ

ふるふると小さく震えて、

左近の覆い被さる身体の隙間から

這い出ようとした娘を、

 

鍛え上げた腕で優しく捕らえて

静かに引き戻す。

そうしてもう一度、抱いた。

 

もう一度。

明け方、もう一度…。

 

裸体のまま攫ってきた娘に、

左近は自分の薄物の着物を与えた。

微睡みに浮かぶ娘に、

明日、またここに来るように

と言い置いて。

 

 

社のすき間の、ところどころから、

差し込む柔らかな明かりで

娘は目を覚ました。

 

肌の上に掛けられた、男の薄物には

髪油の艶かしい香りが残っている。

娘はそれを、すこしもたつきながら、

身体に纏った。

 

裸足で外に出る。

 

朝は昨日までの肌寒さが薄れていた。

雲は厚く空を覆っていたが、

陽の光は透けて地上を照らしており、

山の新緑がほの白くぼやけて、

周りの景色は幻のように見えた。

 

時折り思い出したように

雨粒がぱらぱらと娘の頬を打った。

 

また暫くして、思い出したように。

そのまま降り出すのを待ったが、

風が止むのと同時に雲は山向こうへ溶けて消えていった。

 

 

 

翌日の夕暮れ、

娘は左近の言いつけ通りに

朽ちた社へ足を向けた。

 

白い綿の襟に、

左近から与えられた濃い萌葱の着物を

身に着けている。

 

水仕事で捲くっていた袖を元に戻し、

小さな集落から出て歩いてきた娘を

左近ははるか遠くの小高い社の影から、

見守っていた。

 

 

「連れを捜してこの辺りに逗留している。

すべての用事が片付いたら、

そなた、俺とともに行く気はないか」

 

娘は左近の言葉に心底驚いたようだった。

 

「戯れを…」

睫毛を伏せて、

その足元に視線を落とした。

 

左近はその娘の顎を指でなぞり、

少しだけ顔をこちらへ向けさせる。

娘は目線を合わせない。

 

ただ、頰は熱く染まっていた。

「左近…さま」

左近は次の言葉を待った。

 

「つましい身の上にございます。

どうかこれきりに」

 

 

左近は眉根を寄せ、娘の手を取って

抱き寄せた。

唇を吸われながら、

娘は躊躇いがちに、自分から左近の背に

腕を添える。

 

嫌なら来なければいいのに、

娘は律儀に別れを請うために

ここに来た。

 

 

(これは俺の…

 俺だけの花……)

 

これきりにする気など、

毛頭無かった。

 

 


2018.03.24 脱稿

(無断転載禁止:雪独楽)